新井鷗子さんが横浜みなとみらいホール館長に就任したのは2020年4月1日だった。その数日後に発令された緊急事態宣言を受けて、横浜みなとみらいホールは2020年5月末まで全館臨時休館となった。音楽やコンサートを取り巻く状況が激変した中、その現実を打破すべく新しい取り組みに果敢に挑戦したのが横浜みなとみらいホールだった。
新井さんにその挑戦を始めた経緯や決意について聞き、川瀬賢太郎さん(指揮者)にこれからのコンサートについて語っていただいた。
激変したコンサートを取り巻く現実に
横浜みなとみらいホールは2021年1月1日より約1年10か月にわたる長期休館中だ(大ホール、小ホール及び大ホールホワイエの天井の耐震化に向けた工事、併せて施設の長寿命化対策とバリアフリー対応のための改修工事実施のため)。
休館前の最終日を飾ったのは、毎年恒例となっている2020年大晦日の「ジルヴェスターコンサート」だった。記念すべき休館前ラストコンサートを大勢の観客を迎えて盛大に祝うことはかなわず、定員の半分以下の客席での開催だった。例年のメインイベントの出演者全員の生演奏による年越しカウントダウンは実施できず、開演・終演時間を繰り上げた。感染症対策をしっかりととることを優先して安全に開催するために来場者を限定した一方で、有料ライブ配信も行われ、オンライン上の観客も一緒に、1998年の開館から22年間上げ続けてきた舞台の幕をしばし降ろす瞬間を迎えた。
新井鷗子さんが前館長の池辺晋一郎さんからバトンを受けて、横浜みなとみらいホール館長に就任したのは2020年4月はじめだった。その数日後に発令された緊急事態宣言を受けて、横浜みなとみらいホールは2020年5月末まで全館臨時休館となった。いっさいのコンサートが開かれなかった2か月近く、アーティスト、主催者、舞台関係者、音楽ファンは過酷な状況下にあったが、その状況を打破すべく新しい取り組みに果敢に挑戦したのが新井館長率いる横浜みなとみらいホールだった。
新しい音楽の楽しみ方を提案
−−横浜みなとみらいホール館長に就任されてすぐに臨時休館し、そして2021年1月1日からは長期休館に入りました。音楽やコンサートホールを取り巻く状況が激変しましたが、就任されてからの新しい取り組みについてお話しください。
新井:コンサートホールは音楽を生演奏で聴くために来るところ、その演奏を最高の音響で楽しむところというのはもちろん大前提です。私自身も臨時休館を経て昨年7月14日に大ホールで主催公演をやっと開催できたときは胸がいっぱいになりました。楽器や声がホールの空間を通して響くことの喜びをお客様とともに分かち合えたのはこの上ない喜びでした。
けれども人数制限や外出自粛のため、直接コンサートにお越しになることが難しくなった方もたくさんいらっしゃることにも目を留めなくてはなりません。そしてかたや、バーチャルでの音楽鑑賞を実現する技術には目覚しいものがあります。
そうした背景から「横浜WEBステージ」というバーチャル版音楽フェスティバルを2020年9月1日にスタートさせました。活動の場が減少してしまった演奏家やアーティストを支援することも同時に大きな目的でした。制作したコンテンツ数は120以上、総再生回数は200万回を超え、多くの方にご体験いただいているフェスティバルとなりました(継続開催中)。
−−クラシック音楽界でも大きな話題となりましたね。
新井:単なるコンサートの収録映像ではなく、20年以上にわたり内外の音楽家たちとともに数多くのコンサートを届けてきた横浜みなとみらいホールならではの独自の工夫を凝らし、様々な提案を盛り込んで、新しい楽しみ方を提供できたと思います。
ドローンや高解像度(8K)カメラ、360度カメラ、小型広角カメラを使用した撮影の他、ベルリンと日本の奏者を繋いでの同時リモート収録や、16台ものカメラを用いた自由視点撮影(同時に撮影した映像で3D 空間データを構築しあらゆる角度からの視聴を可能にするシステム)も行いました。
世界の技術者、エンジニアが注目するような最先端の撮影技術を駆使した映像が公開されているフェスティバルになっています。
これまでのコンサートの客席からでは体験できない別の価値を提供したいと考えました。例えばパイプオルガンの配信コンテンツ《ヘンデル;調子のよい鍛冶屋》についてお話しすると、オルガンコンサートの客席からはオルガニストの背中しか見えないわけですが、この「横浜WEBステージ」では、演奏するオルガニストの表情や指の動きを捉えた映像や、パイプの中に小型広角カメラを設置して収録した映像など複数の映像を9分割画面で組み合わせて、客席からは絶対に見ることができない映像として配信しました。
こうした映像の制作は、新型コロナウイルス感染症が収束した後でも、教育的価値がありますし、エンターテインメントとしても優れているのでずっと活用されていくでしょう。
移動型コンサートホール構想が実現
−−その「横浜WEBステージ」のプログラムのひとつとして2020年12月9日に行われた「無人オーケストラコンサート」は驚きに溢れた興味深い音楽体験でした。
新井:これにも最先端の技術が駆使されています。オーケストラ(神奈川フィルハーモニー管弦楽団)の生演奏をメンバーそれぞれにマイクを設置して収録し、その音源を収録時の奏者と同位置に設置した約 70 台のスピーカーから出力します。その無人オーケストラを通常のコンサートのように客席に座って聴くこともできますが、舞台に上がって自由にどのスピーカーに近寄って聴いてもよく、これまでになかった特別な音響体験が可能です。スピーカーの置き方や音の出る向きにもこだわっていますので、無人なのにまるでオーケストラ奏者全員が生で演奏しているようなリアルなサウンドが楽しめます。
無人であることは感染症対策だと受け取ると思いますが、実はそれはまったく想定していなかったことなのです。もともとは現在の長期休館の対策として、「移動型横浜みなとみらいホール」という構想を考えていたんです。
当初は「どこでも横浜みなとみらいホール」というプロジェクト名をつけていました。オーケストラのコンサートを体験するためには、コンサートホールに聴きに行くこと、そうでなければオーケストラ団員がアウトリーチに出向くという2つの選択肢しかない、それを変革したかったんです。
オーケストラの演奏とそれがコンサートホールという空間で響くサウンドを、人間を介することなしに、例えば寝たきりの方の部屋にまで届けることの実現が最初の構想でした。むしろ社会包摂(インクルージョン=すべての人々を孤独や孤立、排除や摩擦から援護し、健康で文化的な生活の実現につなげるよう、社会の構成員として包み支え合うこと)の考えを実現するアイデアだったのです。
感染症拡大という不測の事態が、この構想の実現を加速し、新たな意味づけをもたらすことになりました。「無人」であることの意味が変わりましたし、無観客に向けての演奏に出演料が支払われることにはアーティスト支援という意義が加わりました。このプロジェクトは長期休館のタイミングを待たずに、2020年8月に前倒しで開始になりました。
−−新井館長ならではのホールの特色としてもアピールしましたね。
新井:横浜みなとみらいホールの館長が替わったことは印象づけられたでしょうか?でも私はデジタル人間ではなくてけっこうアナログ派なんですけれども。私自身にとってもデジタル分野にフォーカスできるいい機会になりました。長期休館の期間は、これまでに収録したコンテンツをホール外に持って行く、無人オーケストラコンサートというものを横浜みなとみらいホールの響きごと他のホールに持って行くちょうどいい機会でもあります。横浜みなとみらいホールを世界中に知ってもらうチャンスが到来したと捉えています。
19世紀の楽しみ方が変わる時が来た
−−休館の時期はむしろチャンスと捉えているんですね?その狙いは?
新井:コロナ禍のせいではなく、クラシック音楽のコンサートホールのあり方や、クラシック音楽の楽しみ方が変わる潮目が来ていたのだと思います。
クラシック音楽やコンサートは19世紀のままの形でずっと行なわれてきましたが、こんなに社会が変わっているのに19世紀と同じやり方が続いていたのは、ある意味で奇跡的なことですよね。19世紀にはダンスホールでは楽団の生演奏でワルツを踊っていたのが、今はクラブで録音音楽をDJがかけて踊るわけですし、19世紀の宮廷で食事の時のBGMは生演奏だったのが、今はレストランでのBGMは録音音楽が当たり前です。
200年前と社会状況は大きく変わっているのに、コンサートホールだけが19世紀のやり方のまま生演奏することに固執しているのは、むしろ不思議なことで、変わるべき時が来ていたのかなという気がしています。コロナ禍という思いもかけなかった受難との闘いが、19世紀の音楽が現代社会でどうあるべきかに気づかせてくれることになったのかもしれません。
2022年にコンサートホールはどうなっている?
−−長期休館中にもかかわらず横浜みなとみらいホールはバーチャルで展開しているわけですね?
新井:リアルでも他のコンサートホールの空間をお借りして、主催コンサートを開催します。横浜みなとみらいホールが企画・制作したコンサートを神奈川県立青少年センター、神奈川県立音楽堂、神奈川県民ホールなどを借りて実施するんです。
恒例シリーズとなっている「こどもの日コンサート」、「横浜市招待国際ピアノ演奏会」、「パイプオルガンと横浜の街」「Just Composed~現代作曲家シリーズ~」や横浜全18区の文化施設に横浜にゆかりのあるアーティストが出向く「横浜18区コンサート」はこの形で実施します。
(詳細はhttps://mmh.yafjp.org/mmh/)
「♯MMhall will Keep Going 横浜みなとみらいホールは音楽を奏で続けます」を合言葉に、バーチャルでもリアルでも活動を続けるんです。
−−これからの横浜みなとみらいホールはどうなりますか?館長としてのお考えを教えてください。
新井:社会がコロナ禍という苦難を経験した今、横浜みなとみらいホールは公共ホールとして、社会課題を解決するという使命に応えるホールでなければならないと考えます。
例えば昼間のコンサートが手頃な料金で高齢者がたくさん足を運んでくれるとしたら、それは高齢化社会における課題の一つの解決策にもなりますし、バーチャルフェスティバルの実現は、なかなかコンサートに来られない寝たきりの方などに音楽を届けるという社会包摂という解決にもなります。コンサートの開き方をちょっと工夫することで社会課題の解決につなげていけると思います。
2022年に横浜みなとみらいホールがリニューアルオープンする時には、SDGsの課題を解決するホールとして社会や市民とつながっていることを目指したいと考えています。ホールで起こっていることが自分のことだと思えるような場所にしていきたい。
具体的には、例えば「こどもの日コンサート」では中学生がプロデューサーになってコンサート制作に参加する「中学生プロデューサー制度」を考えています。中学生を募集して、曲目を決めたり、宣伝したり、会場案内を務めたり、ワークショップ形式の職場体験のようなプロジェクトです。今年度から実験的に始めたいと考えています。[こどもの日コンサート2021関連企画]中学生プロデューサー大募集!
これからは社会とつながっていないホールは社会に存在する意味がないと思います。そういう方向に横浜みなとみらいホールのブランディングを舵取りしていきたいと考えています。
これからのウィズ・コロナの時代の音楽、コンサートとは?
対談:川瀬賢太郎(神奈川フィルハーモニー管弦楽団・首席指揮者)×新井鴎子(横浜みなとみらいホール館長)
2020年12 月 9 日に行なわれた画期的なイベント「無人オーケストラコンサート」で、神奈川フィルハーモニー管弦楽団による演奏−−《ベートーヴェン:交響曲第 5 番「運命」より》《J.ウィリアムズ:「スター・ウォーズ」メイン・タイトル》《ビゼー:歌劇「カルメン」より 第一幕への前奏曲》−−の指揮者を務めた川瀬賢太郎さんに、新井さんと対談していただいた。このイベントの意義や、これからのオーケストラやコンサートの役割などについて話が交わされた。
川瀬:今回の「無人オーケストラコンサート」は、感染症拡大の影響で観客の前で演奏ができなかったオーケストラにとってとても大きな意味のある機会でしたし、指揮者としてもとても嬉しいことでした。オーケストラ、アーティストを支援していただいて感謝しています。
新井:演奏ができないアーティスト、コンサートを開催できないコンサートホール、 ホールに来場することがかなわないお客様、三者の思いを新しい形で実現できたと思います。いつものコンサートと同等の出演料をお支払いできましたし、通常のコンサートのようにしっかりと準備していただいて、「本番」の演奏をしていただきました。
川瀬:通常のコンサートに出演するのと同様にリハーサル、サウンドチェックもきっちり行い、「ゲネプロ」も行って「本番」に臨みました。無観客の収録であっても自分たちの音楽に責任を持ちたいというスピリットに変わりはありませんから、定期演奏会などに臨むのと同じ過程と姿勢でした。
新井:2020年8月1日のことでしたね。その全力の「本番」の演奏を、ステージ上やホール内で存分に映像を撮影し、音源を収録させてもらいました。これまでの収録やライブレコーディングは全体の演奏を数本のマイクで拾って再現しますが、今回はオーケストラのすべての楽器1台ごとに約70台ものマイクを立てて一人の演奏者ごとの演奏を録音しました。客席で聴く音楽体験を再現するだけではなく、客席では体験できない別の新しい価値を提供したいという意図だったんです。
川瀬:まったく新しい音楽の楽しみ方の提案ですよね。客席に座ると無人の各楽器が奏でて一体となるオーケストラの演奏が聴けますし、今回のイベントではステージに上がってもらって好きな位置からそこで鳴っている音を聴くというユニークな体験もしてもらえました。僕の指揮台の位置に立ってみると僕のいつも聴いている音が聞こえます。例えば奥に座る打楽器から少し早めに音が出ていることなどが体験できてしまいます。驚きましたね。僕の鼻息までも聞こえるので少し恥ずかしいですが。
クラシック音楽を楽器で演奏するという200年以上も昔からある事柄と、現代の最先端のテクノロジーが、ここ横浜みなとみらいホールで初めて結びついた機会に関わることができて、とても光栄に思います。クラシック音楽とオーケストラの可能性を実体験することができました。
新井:今回の体験は「無人オーケストラを聴く」という体験ですが、同時に撮影した映像は「横浜 WEBステージ」で公開しています。映像には自由視点というスポーツ観戦などではもうすでに実用化されているシステムが適用されていて、奏者や地点を選んで自分で音楽鑑賞の視点を決めることもできます。
川瀬:「横浜 WEB ステージ」は今までコンサートホールに行かないとオーケストラを聴けなかったのが、自宅で鑑賞できるようになったわけですよね。僕たちオーケストラも新しい聴衆に出会うことができているかもしれない。
新井:今回のプロジェクトで横浜みなとみらいホールは移動可能になったんです。
川瀬:サントリーホールやオーチャードホールに横浜みなとみらいホールの響きを持っていって広げて、ホールの響きどうしが交わるという、絶対に不可能だと思っていたことが実現されるなんて驚きです。
今回の取り組みがコロナのせいで仕方なく行なったことではなく、音楽を体験する方法が増えたという新しい価値の創造になったことが感動的ですよね。生の演奏をコンサートホールで聴くことに加えて、CDを聴くこと、YouTubeを聴くこと、そして今回のようなバーチャル体験が生まれて、音楽を体験するチャンネルやボキャブラリーが増えたということですから、これがクラシック音楽に親しみを持つ人が増えることにつながるととても嬉しい。
僕はこれからのウィズ・コロナの時代にあってもオーケストラと一緒にお客さんの前で演奏することは大事にしますが、今の時代を生きる音楽家として、今の時代に実現できる最新の体験に巡り会えたということは大きな経験です。新たな聴衆に対しての演奏家としての役割もこれをきっかけにもっと広がっていくでしょう。
新井:横浜を本拠地とするオーケストラであり、定期演奏会をここで開催している神奈川フィルとシェフ(首席指揮者)の川瀬さんと一緒に取り組めたことは、私たちとしてもたくさんの発見もあり大きな経験でした。移動可能になった横浜みなとみらいホールに期待していただきながら、リニューアルオープンの時が来て再びここで会えることも楽しみにしてください。
取材・文 猪上杉子
撮影 大野隆介(※以外)
【プロフィール】
横浜みなとみらいホール館長
新井 鷗子(あらい おーこ)
東京藝術大学音楽学部楽理科および作曲科卒業。
NHK教育番組の構成で国際エミー賞入選。これまでに「読響シンフォニック・ライブ」「題名のない音楽会」「エンター・ザ・ミュージック」等の番組、コンサートの構成を数多く担当。東京藝大COIにて障害者を支援するワークショップやデバイスの研究開発に携わる。
著書に「おはなしクラシック」(アルテスパブリッシング)、「頭のいい子が育つクラシック名曲」(新星出版)、「音楽家ものがたり」(音楽之友社)等。
東京藝術大学特任教授、洗足学園音楽大学客員教授。
横浜音祭り2013、2016、2019ディレクター。
【インフォメーション】
横浜市バーチャル版フェスティバル事業「横浜WEBステージ」
配信:横浜WEBステージ特設サイト
料金:無料(通信料が別途かかります。)
エグゼクティブ・プロデューサー:新井鷗子
クリエイティブ・ディレクター:田村吾郎
出演者(一部・順不同):
川瀬賢太郎(指揮)、神奈川フィルハーモニー管弦楽団(管弦楽)、山田和樹(指揮)、横浜シンフォニエッタ(管弦楽)、石田組(弦楽アンサンブル)、﨑谷直人(ヴァイオリン)、阪田知樹(ピアノ)、浅井美紀(パイプオルガン)ほか
主催:横浜みなとみらいホール(公益財団法人 横浜市芸術文化振興財団)
共催:横浜市、横浜アーツフェスティバル実行委員会
横浜みなとみらいホール長期休館中のコンサート
https://mmh.yafjp.org/mmh/