2018-10-05 コラム
#子育て・教育 #福祉・医療 #生活・地域 #美術

写真家・和田芽衣さんが語る、 5万枚の写真の意味

和田芽衣さんは、2016年に名取洋之助写真賞奨励賞を受賞した写真家。写真集『わたしと娘』の出版記念トークイベントを、故郷である横浜市中区の開港記念会館で開いた。そこで語られたのは、5年間に撮った5万枚の娘の写真の意味だった。

 

5年間で5万枚

和田芽衣さんは、今年6月に初めての写真集『わたしと娘』を出版した。タイトルの「娘」には「ゆき」とふりがなが振られている。長女の結希ちゃんを撮影した5万枚の写真から30枚を選び、若手写真家のための登竜門である名取洋之助写真賞に応募したところ、 奨励賞を受賞したのは2016年。その作品群を元に55枚で再構成したのがこの写真集だ。5年間で5万枚もの我が子の写真。この膨大な撮影枚数には深い理由がある。
5分間のスライドショーの上映で会は始まった。2011 年2月の結希ちゃんの誕生からこれまでの生活が、和田さん撮影の写真と短い文章で綴られている。誕生間もない結希ちゃんを連れて戻った横浜の実家での母親の介護と看取り。埼玉・飯能市の自宅に戻って結希ちゃんの子育てに専念して間もなくの、結希ちゃんの病名の宣告。それからの病気や検査と闘う結希ちゃんの痛々しい姿と合間で見せる笑顔。病室のカーテンや天井、洗濯物といった日常。そして7歳になった結希ちゃんの現在の姿と家族の姿。

会場が静かに見入る。「自分で編集しておきながら、最初の頃は見るたびに泣いていました」と和田さん。9ヵ月の我が子に告げられた病名は結節性硬化症。厚生労働省の指定難病の一つで、遺伝性の疾患であり、日本には1万人程度の患者がいるとされている。現代の医療では根治不可能の病だ。当時の心境を振り返り、「それまでの人生がガラガラと崩れ去り、明日どうなるのかもわからない、そしていつまで続くのかわからない出口のない苦しみに思い詰めてしまいました」と語る。しかし和田さんの口調は冷静で時にユーモアさえも混ざる。ほとんどモノクロで撮られた写真が、極限の感情との壮絶な格闘に違いない日々の風景を、声高にではなく静かに訴えてくる。

写真提供:和田芽衣

 

「今」を写真に残したい

カメラを向け続けた理由は、病気の特性にある。結節性硬化症という娘の病気をインターネットや専門書で調べに調べた。すると、重症例として20歳ぐらいで症状が激化する、最悪の場合には命が尽きるかもしれないという記述に当たってしまう。皮膚・神経系・腎臓・肺・骨などいろいろな部分に良性の腫瘍ができる病気であるため、外観に大きく影響してしまうかもしれない。
「こんなにかわいいのに、何で」と嘆くとともに、「今、目の前にいるかわいい娘の顔や姿は、明日になったら消えてしまうかもしれない」という強迫感から、「かわいい時を残しておきたい。とにかく撮れる時に撮って残さないと、後から戻っては撮れないのだから」という切羽詰まった気持ちで、結希ちゃんの「今」を残そうと、小さなからだ、表情や暮らしにレンズを向け、シャッターを切り続けた。写真は中学生の頃から、ずっと続けていた趣味だった。精神科医の夫・理さんが愛用の一眼レフカメラのレンズを新調したらと言ってくれた。その撮影枚数は5万枚にのぼった。

写真提供:和田芽衣

 

そして撮ったのは娘の姿だけではない。病室のカーテン、窓から見た空や雲、洗濯物、目に入るものを撮り続けた、それはつまりカメラの手前の和田さん自身の視線だ。

 

大きな挫折を味わった「どん底」

5万枚の写真を「人生のどん底から這い上がり始めるまでの記録」と和田さんは呼ぶ。結希ちゃんの病気の判明からの闘病の日々を「どん底」と呼ぶ理由には、親として我が子のために格闘しなければならない壮絶な心境を指して言う以外に、もう一つある。それは自身の人生の挫折をも意味したのだ。心理士になりたくて大学と大学院で10年も学んだ末に、埼玉医科大学国際医療センター精神腫瘍科の心理士として患者や遺族の心理ケアに携わっていた。大好きな仕事、希望の職場を一時的に産休と育児休暇で離れているとき、職場復帰をしようと意気込んでいた矢先のできごとだった。順風満帆な自身の人生の崩壊を自覚したのだと言う。5万枚の「人生のどん底から這い上がり始めるまでの記録」は、和田さん自身が向き合った感情の記録でもあるのだろう。

 

現在の結希ちゃんは病状も落ち着き、妹たちと元気に駆け回り、昨春から小学校の特別支援学級に通う。和田さんもその後に二人の娘を出産し、三人の子どもの母である。

和田さんがカメラを向ける先は、結希ちゃんと家族だけではない。最近、同じ境遇の親たちと家族を越える社会に向けた活動をはじめた。3年前には同じ難病・障害を抱える親子・きょうだい児のケアのための会「ニモカカクラブ〜病気のこどもと家族(親・きょうだい児)の会」を立ち上げた。活動は、世界希少・難治性疾患の日(レアディジーズデイ)にあわせたイベントを開催したり、病気のある子どもと訪れられる「スペシャルキッズカフェ」を開いたりなど、飯能市を中心に行なっている。病気や障がいがあるだけで生きる空間が限られてしまうという現実をなんとかしようと、子どもと親の居場所づくりとともに、後回しにされる兄弟・姉妹たちのケアにも取り組んでいる。
また、写真家としては、難病の子どもがいる4家族の日常を撮影し、2月に写真展を開いた。飯能市にある障害者就労継続支援A型事業所にこにこハウスや、同市にある社会福祉法人おぶすま福祉会の運営する作業所の様子も紹介された。どちらも数年にわたって記録し続けている。福祉事業所で働く障がい者は、「将来の娘の姿であり、つまり彼らは娘の先輩なんです。笑顔に囲まれ、笑顔で暮らせる社会を、娘が高校を卒業する10年後にも確実に残し、広げていきたい」と和田さんは言う。

※「にこにこハウス」を紹介する和田さん

心理学に助けられる

「どん底をたっぷり味わって今は階段を登り始めたところ、でもすぐにまた降りなければならなくなるかもしれない」と和田さんは語るが、まずはどうやって「どん底」から這い上がることができたのか。そして今や、他の人と助け合う団体を立ち上げて活動するまでになり、そして自分のためだけに写真を撮るのではなく、世の中の多くの人々に難病や障がい者のことを知らせるための写真を撮りに出かけるようになったのか。

トークの合間に紹介される心理学の書籍からの引用の言葉や、心理学用語の専門的な解説。それは、トークを聞きに来た病院や教育に関わる人たちへの解説であると同時に、自身の葛藤の軌跡のようにも聞こえた。「どん底」の日々にいた時は心が火傷したような状態で、どんな慰めの言葉も響かなかったと言う。理不尽な苦難を乗り越えるために、心理学の研究者だった和田さんは、まさに心理学や精神医学にその説明を求めていたように思う。
そして、和田さんが2つの引用文を映した。

「困難な人生の経験を統合して乗り越えるうえで、その経験について打ち明けることや『説明する』ことが重要である」
(The handbook of post traumatic growth : research and practice
edited by Lawrence G., Calhoun and Richard G.Tedeschi)

「誰かと関わりを持ち続けていようとする行為は、立ちはだかる大きな試練を乗り越えていくことを促す要素である」
(V.E.フランクル著 霜山徳爾 訳 『夜と霧−−ドイツ強制収容所の体験記録』より)

同じ境遇の人に向けては、専門家である心理カウンセラーに話を聞いてもらうことの重要性を説いた。また専門家に対してはその重大な役割の認識を促す。和田さんでなければできない貴重なアドバイスだ。

「苦悩と死は、人生を無意味なものにはしない。
そもそも苦難と死こそが人生を意味のあるものにするのです」
(V.E.フランクル『それでも人生にイエスと言う』より)

トーク会は、和田さんが眠れずに付き添う病室で何度も手に取り、読み返した書物からの引用を紹介して終わった。しかし、こう付け加えることを忘れない。「でも、けっして我が子にこんな苦難を味わわせたくはなかった。我が子の病と引き換えに得る人間的な成長なんてどうでもよかった」と。 親としての率直な本心を隠さずにあえて付け加える。それは写真家としての和田さんの姿勢にもつながっているだろう。それは、ありのままの姿をそのままに伝えるという姿勢だ。

この日のトーク会は2度開かれた。子ども連れでも来やすいようにと開いた午後の部では 、同じ境遇にある親たちに向けて自分の経験を語った。そして夜の部はその経験が、横浜でケアに携わる方たちと共有でき、生かしてもらいたいと望んでの開催だ。実際、会場には心理士や教員を目指す人、福祉士として働く人らの姿があった。講演後の和田さんをいろいろな人が取り囲み、話をしたがっていた。一人一人に丁寧に向き合おうとする和田さんには、自分が助けられて階段を一段登れたからこそ、 今度は人を助けたいという使命感が感じられた。そしてそこには写真という手段も欠かせないのだろう。

 

トーク会終了後にあらためて和田さんにとって写真家であることの意味を聞いた。

—-写真との出会いは?
中1の時に写真部に入って初めてカメラと出会いました。人を撮るのが好きでしたから、同級生のスナップをたくさん撮りました。心に何かが引っかかった時にシャッターを切っている。写真を見るとその時の気持ちがくっきりと思い出せる、そこが好きでした。

—–他の手段ではなく写真を選んだのはなぜですか。
写真は言い過ぎないから。ブログで残そうと試してみたら、私には言葉で発信することは向かなかった。言葉は相手の受け取り方 を一つに限定するような気がしたんです。けれども写真のいいところはあえて曖昧にできるところ、受け取り方を見る人に委ねられるところ、「私はこう思う」と断定的なメッセージを一方的に伝えるのではないところ。カメラの手前の目線を、シャッターを切った人の気持ちを、見る人が自由に想像できる、そこが写真のいいところだと思います。

—-和田さんにとって写真とはどんな意味を持つものですか?
かつての私は肩書きなど気にしない人間だと思っていました。しかし、ある日突然に肩書きをまったく失くしました。その瞬間、自分がこれまで肩書きに守られながら仕事をしてきたことに気づきました。いかに自分が無力であるかと思い知らされました。その時、心理学よりも長く私が続けていた写真のことを思い出しました。 当初はただただ自分のために撮っていました。その後に写真の持つ力に気づき、一人でも多くの人に「知ってもらう」「伝える」という役目に回ることを決めました。今の私は、大勢の人といっしょに団体活動をすることと、一人で写真を撮ることの二つの活動の両方がなくてはならない、今の私を支える大事な両輪の一つです。人をもっと撮りたいです。「写真を撮らせてください」と話しかけることがコミュニケーションの取っ掛かりにもなり、世界を広げてもらっています。

文・猪上杉子  ※撮影・森本聡

 


Profile

埼玉県飯能市在住。3児の母。
1983年横浜生まれ。12歳で写真を撮り始める。
2007年から2012年まで、がん専門の心理士としてケアに従事。 2011年に生まれた長女が結節性硬化症を発症し、翌年退職。2014年より写真家佐藤秀明氏に師事。
難病・障害を主なテーマとし、撮影や講演会を行なっている。
写真家としての活動の他、2015年より埼玉県飯能市を中心に『ニモカカクラブ〜病気のこどもと家族(親・きょうだい児)の会』の代表も務める。

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