アーツコミッション・ヨコハマによる2020年度若手芸術家支援助成「ACY U39アーティスト・フェローシップ」の一人、市原佐都子さん。人と動物の関係性、欲望と悟性、差別が生じるメカニズムなどに関心を寄せる作風は、ブラックなユーモアを交えながら鋭くいまの時代に光を当てます。
その独特な視点から生まれた作品群は高い評価を受け、『バッコスの信女 ー ホルスタインの雌』(2019年)は第64回岸田國士戯曲賞を受賞し、2020年にはKAAT神奈川芸術劇場での再演を実施。スイスの劇場シアターノイマルクトとの共同制作の新作も予定されるなど、まさにいま注目すべき才能と言えるでしょう。
ですが現在世界を覆う新型コロナウイルスの感染拡大は、市原さんの活動にも思わぬ影響を与えたといいます。そんななかで作家は何を考え、行動しようとしているのでしょうか?
声を交わし、起こる飛躍
ー あいちトリエンナーレ2019で初演された『バッコスの信女』は、前回の岸田國士戯曲賞を受賞するなど高い評価を得ています。エウリピデスによるギリシャ悲劇を参照しつつも、それを大胆に解体・再構築して、人間社会の欲望や性規範を描きました。その前の作品にあたる『妖精の問題』(2017年)、そして2013年に上演された『いのちのちQ』などの要素が合流したような大作だと思いますが、同作に至るまでについて市原さんはどのように考えてらっしゃいますか?
市原:演劇を始めて、とくに自分の劇団であるQでの活動を始めてからは、自分がこれまで生きてきたなかで蓄積されてきたこと、自分と自分のからだとの対話のようなものから書いている感覚がとても強かったです。初期衝動みたいなものに突き動かされていましたから、数年間はものすごい勢いでどんどんつくることができたのですが、『毛美子不毛話』(2016年)あたりから行き詰まりを感じきたんですね。
それまでは俳優と一緒につくるというよりも、まず私が猛烈に稼働し、それにみんなが懸命に付いて来てくれるという感じだったんですけど、その方法で生まれるものでは、ちょっとどうにもならなくなってきた。
ー 『毛美子不毛話』の猛烈な一人語りは、たしかに市原さん自身の「声」という感じがありました。
市原:俳優とのコミュニケーションや、自分や作品の外側にあるものから描きたいという気持ちが強くなったのはそこからですね。単なる出演者ではなく、問題意識を共有して作品について話せる環境をつくりたい。その実験が『妖精の問題』だったと思っています。もちろん2016年に起きた「相模原障害者施設殺傷事件」も大きなモチーフになっているのですが。
ー 岸田戯曲賞の授賞式の動画がYouTubeにありますが、『妖精の問題』に出演した竹中香子さんがスピーチなさっていて、過酷な沖縄合宿のエピソードなどを話してますね(笑)。
市原:竹中さんは「俳優の仕事はコミュニケーションである」と言う人ですから頼もしかったです。自分が要求することに対してちゃんと「できない」と言ってくれるようになって、そこで自分も「じゃあどうすればいい?」と考えるようになった。鍛えられました。
ー 『妖精の問題』を経て、『バッコスの信女』のクリエーションが始まったわけですが、作品の規模、座組み、観客数においても過去最大級の作品だったと思います。その経験はいかがでしたか?
市原:創作が始まったのは豊岡の城崎国際アートセンターで、メインの俳優さんから2人、制作、作曲家、ドラマトゥルグ、そして城崎に住んでいる女性の方たちと一緒にワークショップを開いて、歌をうたうというものでした。
ふだんそこまで演劇に触れていない人を相手に、いきなり私が書く過激というか個性的なセリフを言わされる、歌わされるのは相当に抵抗があると思うんですよ。だからかなり丁寧に「私がやりたいのはこういうことで、そのためにこの内容を書いています」「嫌だなと思ったらすぐに言ってください」といった説明をするようにしました。その甲斐もあったのか、高校生から年配の方までかなり多彩な参加者がすごく楽しんでくれた感触があって、自分自身にも自信を持てたのは大きかったです。
それから、歌の力ってすごいって思いました。作曲が額田大志さん(ヌトミック、東京塩麹主宰)で、音楽に載せて大声で歌うと過激な内容でも楽しくなっちゃうんです。歌の魔力みたいなものって、人間を簡単に操ってしまうような危険な側面もあるとは思うんですけど、歌うことで自分たちを悩ませている抑圧から解放されるような力があるんじゃないか、と言っている参加者もいましたね。
これとほぼ同じことを本公演のキャストも言っていて、歌をうたう体験によって、作品のことを前向きに理解できるんだと驚かされました。
ー 『バッコスの信女』はかなりグロテスクな話でしたが、いっぽうで同じ時間を共有する経験の悦びを観客にも強く感じさせるものでした。
市原:あいちトリエンナーレでの初演から神奈川芸術劇場(KAAT)での再演で内容的に大きく変えたものは少ないですが、コロスたちの演技が自然と変わっていくのを感じました。自ずとやりたくなっちゃうというか、勝手に飛躍していくというか。
たとえば、「もっと大きな声を出して!」と私が指示をしなくても、飛躍が起こるための場所をただ用意して、やってもらうことでポジティブな作用が生まれていく経験は感動的でした。「あそこに自分も出たかった!」という感想をたくさんいただいたのも嬉しかったです。
劇場で共有すること
ー 個人的な経験ですが、『妖精の問題』が2018年に再演されたときの変化も忘れられません。初演時は、「ブス」や「マングルト」(女性器のなかで熟成されるヨーグルト。もちろん架空の設定)といったテーマやモチーフの扱いが露悪的に働いていて、観客の好奇心を煽るだけのような感覚がありました。
ですが、再演では脚本に変化がないにもかかわらず、さまざまな理由で社会的に孤立していく登場人物の描写にフォーカスされていて、厳しさと共感がないまぜになるような不思議な感覚を覚えたんですね。上演を重ねることで作品が進化するということをはっきり感じましたし、そのことに、演劇が持っている根源的な力を感じた気もします。
市原:『妖精の問題』の初演は余裕がなくて、初演ということもあり、とにかくできたばかりのものをぶつける、という感じでした。
自分の扱っているものが世の中的には危険なこと、あまり観たくないものであるのはわかります。でも初期衝動でつくっていた頃は「世の中の人に引かれたとしても、私はそれをやる!」ってモチベーションでやっていけていたんですよね。最近は、それが誰かにとって傷つく表現かもしれず、結果として届かないかもしれないことについてよく考えるんですが、かといって自分の描きたいことを変えるのももちろんしたくない。再演時にも同様のことを考えて、俳優とはいろんな話をしました。
演劇の力、あるいは演劇のよさの一つに、観客の時間を拘束する、ということがあると思います。例えば10分間、ヘイトスピーチのような攻撃的なセリフを喋る部分があったとしても、その前後を観てもらえればその必要性がちゃんとわかるように設計できる。この過激な部分が、作品全体のなかでどういう役割としてあるものかをみんな知りたいと思いながら観てくれると思います。劇場で一定時間拘束されることは、映画のDVDを家で一人で観るのとはまったく違う経験です。厳しい言葉や危険だとされていることを、劇場ではちょっと安全な状況で、みんなで共有することができる。
ー そういうなかで観客の気持ちを閉ざさないような作業は意識していますか?
市原:俳優の魅力と、あとはユーモアとか。私が作品のなかで扱うものって、観客からしたら「それを本当に楽しんではいけない」って心が働くと思うんです。そこで『妖精の問題』だったら竹中さんがすごく気持ちを開いてくれる人で、安心感を与えつつ危ないこともやってくれる。それに触れた観客は「これはわざとやっているんですね」と了解するんじゃないでしょうか。
ー あらためて、市原さんのキャリアのなかで『妖精の問題』の大切さがわかります。そして、その経験が『バッコスの信女』に続いている。それを踏まえての質問ですが、次は何をしようと思っていますか?
市原:昨年の11月、12月は佐々木敦さんが編集長をしている『ことばと』に寄稿するために小説を描いていて、それが終わったあとは来年度にスイスで上演する予定の新作の台本……両方とも『蝶々夫人』を題材にしたもので、それを書こうと思っているんですけど、たぶんコロナのせいで、なかなかモチベーションが上がらず……。
ー 前回のシアターコモンズでも『蝶々夫人』のリーディング公演をしていましたから、約2年間、向き合っていることになります。なぜ新作のモチーフにしようと思ったのでしょうか?
市原:ここ数年で海外との仕事のつながりができて、アジア圏、ヨーロッパ圏の人たちと関わる機会が増えたのですが、とくにヨーロッパで感じた違和感がきっかけです。
何ヶ国語も話せるのが普通のかれらと、英語もそんなに話せない私は全然対等じゃないと感じたし、海外での上演を予定していた『バッコスの信女』では、黒人に関する話も変えてくれと言われたりしたんです。
ー それはポリティカル・コレクトネス的な観点にもとづくものですか?
市原:そうです。日本だとハーフと呼ばれている子たちって目立つからいじめの対象になってきたじゃないですか。みんなと一緒じゃないと攻撃されるという差別が日本にはベーシックにあって、それは作品を着想するとても重要な要素にもなっている。でも、ブラック・ライブズ・マター的な規範を踏まえるともう一発でアウトという感じなんですね。「いじめている側がいじめられている側のことを話すのはよくない」と言われました。そういうあちら側のルールに乗らないと、上演する機会ももらえない。
ー 対話にもならないというか。
市原:他にもいろんな話があるんですけど、そういうクリエーションの齟齬から『蝶々夫人』への興味が浮かんできたんです。よく知られているように同作はオリエンタリズムの話ですが、ヨーロッパにとってちょうどいい日本像、子どもっぽく扱われるアジアの女性像、そしてそれにむしろ迎合してしまいそうになる自分の気持ちを書けたらなと思っているんです。
市原:でも、このコロナ禍の状況ではコロナ前に感じた違和感を執筆するだけの切実さがなくて。書くことに違和感がある。だから『ことばと』の小説では、閉じた日本のなかで外国への憧れを膨らませていく人物の話を書きました。
いまから思うと、ヨーロッパの人たちとのやりとりに違和感をもっていたコロナ前の迷いは、もはや輝かしい迷いだったなと思います。なんであれ「何かはできる」と思って動いていける素晴らしい時代だったなと。でもそれはすっかりなくなってしまって、ここからどう進めていけばいいか、自分は何をしたいと思っているのかをもう一度問い直さなければならないと感じています。
ー コロナ時代であるいま、多くの人が「できる」こと、あるいは「いつかできる」ことを軸に考えていると思います。でも、実際には市原さんが言ったように「できない」ことが圧倒的に多い時代だし、日本はますます「できない」ことが増えていくと思います。
市原:VRも演劇で活用されています。自分がそういったテクノロジーを使うかといえば、勝手が違いすぎるし悩みます。もちろんそれに取り組めば、公演できる可能性は高まります。でも、だからといって「可能性のある」ということを価値にして安易に選んでいいのかどうか。自分の作品でテクノロジーを扱うことへ必然性も考えなければいけません。現在考えるべきことはたくさんありますが、次回新作のシアターノイマルクトとの共同制作は自分にとって新しい挑戦で、とても楽しみです。
取材・文:島貫泰介
写真:菅原康太(※をのぞく)
撮影協力:KAAT神奈川芸術劇場
【プロフィール】
市原佐都子
劇作家・演出家・小説家。1988年生まれ。桜美林大学にて演劇を学ぶ。人間の行動や身体にまつわる生理、その違和感を独自の言語センスと身体感覚で捉えた劇作、演出を行う。女性の視点から、性や、異種間の交尾・交配などがフラットに描かれる戯曲では、観客の身体を触覚的に刺激する言葉が暴走し、舞台上の俳優たちは時に戯画的に、時に露悪的に台詞を全身から発散させる。そこでは、男性中心的、人間中心的に語られてきた性や生殖行為が無効化し、社会のマジョリティを覆っている倫理観や道徳観念にもラジカルな疑いがかけられる。
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