村上さんは1992年群馬県生まれ。武蔵野美術大学入学後に銅版画の制作を始め、同大学院に在学中の2015年に「FACE 2015 損保ジャパン日本興亜美術賞」優秀賞、「第6回山本鼎版画大賞展」大賞、「トーキョーワンダーウォール公募2015トーキョーワンダーウォール賞」などを連続受賞。2019年には上田市立美術館で個展「gone girl 村上早 展」を開催し、複数の美術館に作品が収蔵されるなど目覚ましい活躍を遂げている。一貫して描いてきたモチーフは、顔のない少女や、虫、馬、熊といった動物たち。自身の心の底に眠る記憶やトラウマから引き出されたイメージを、“傷”として銅版画に刻むことでかたちにしている。作品自体は親しみやすい素朴なイメージでありながら、近づいて見れば針で体をつつかれるような痛みや恐怖をたしかに感じる。
今回は、2015〜2021年に制作された作品16点と新作2点を拡大して掲出。美術館が生まれ変わろうとしている状況や、ウイルスという小さな存在が世界中に影響を与えたコロナ禍と呼応するように「死と再生」「人間と動物の関係」をテーマとし、その親密な作品世界を屋外で提示する初めての機会となった。自身の経験を通して生まれてきたモチーフや、身体ごと画面に向き合い線を紡いでいくときの感覚について、村上さんに聞いた。
自らを救うための制作
銅版画としては大きい縦1メートル前後の作品を多く手がけてきた村上さん。今回は90メートルの仮囲いに18点の作品が並び、どれも縦2.6メートルほどに引き伸ばしてプリントされている。生々しさもある作品だが、家族連れがピクニックをしたり、噴水の上を子どもが裸足で駆け回ったりする広場の光景とは不思議に溶け合って見える。取材当日に初めて掲出風景を見たという村上さんは、「大きい作品をつくりたいという欲があったのですが、なかなか銅版だと物理的な制限があるので、難しくて。今回は大きく引き伸ばすことができて、私が描いた絵のなかのクリーチャー(生き物)にも迫力が出ました。強いモチーフでも場所に馴染んでいたのが素直に嬉しかったです」と笑う。
銅版画という手法を選んだのは、大学で何をするべきか悩んでいたとき、銅版の作品について教授から「いいんじゃない?」という一言をもらったのがきっかけ。その後は、心のなかにある悩みを昇華して“自分自身を救う” ために制作していた彼女にとって、銅版画が一番しっくり来るようになった。「おおまかに構想をしてから制作を始めますが、そこから離れていくことが大半です。制作の過程で自分の気持ちと描きたいモチーフが噛み合ったときに、この絵はよくなるかもしれない、と救われる気がします」。
作品にたびたび登場するのが、顔のない人物の姿に加えて、犬、馬、鳥、虫といった動物たちだ。それらは人物に抱擁された姿や、互いに覆いかぶさった姿で描かれ、種の境界が曖昧になるような印象も与える。こうしたイメージの源泉は、自身の家庭環境によるところも大きいという。「実家が動物病院で、動物がつねに近くにいる環境で育ちました。体にぼこっと穴の空いた犬、目に出来た腫瘍が顔の半分を覆う猫など、私にとって当たり前の光景で、それはいま私が絵を描いていること自体に直結していると思います。初めて人と動物を一体化した作品を描いたのは大学時代です。なかなか周囲の人に馴染めなくて、自分がほんとうは動物なんじゃないかとぼんやり考えていました。それで女子高生の脚を熊に替えた銅版画を描いてみたら、自分のなかですごく腑に落ちて、続けてみようと思いました」。
「自然や動物が特別好きというわけではなくて、逆に人間の得体の知れなさのようなものがすごく怖いんです。自然や動物は『そういうものである』ということを裏切らないけれど、人間はイメージを裏切るときがありますよね。人の表情を描かないのも、無感情な状態にすること、つまり人を自然の一部として捉えることで、自分の恐怖心を抑えたいのかなと思います」。モチーフには自身のトラウマや恐怖心が反映されているが、その選択にはまだまだ葛藤がある。「例えば頭だけが動物になっている人間などは、美術史でよく見られるモチーフなので、親しみやすすぎるかな、と思っています。いまも切実な理由はありますが、 もう少し自分のなかに落とし込んだかたちにしたい」。
傷つけ、継ぎあわせることで生まれるもの
本展では、新作2点も紹介されている。《ことかく》(2022年)は、テーブルの上に並んだ無機質なモチーフがかもし出す不穏さと優しさが同居するような作品だ。「コロナ禍で無意識のうちに感じていた、不自由さや動きづらさを描きました。飛行機と馬の頭がなくなっていて、移動手段が絶たれている様子を表しています。昔の人は、平たい地球が象に支えられていて、その外側は滝になっていると考えていたそうですが、そのイメージで私はよく世界の象徴としてテーブルを描きます。テーブルにはクロスが敷いてあって、その外は、この世界いわば現生(うつしよ)の外側になります」。
《まよいご》(2022年)には丸まって眠る少女や動物たちが描かれ、ノアの方舟を想起させる。「元々はバースデーケーキを描くつもりで、コロナ禍でケーキのろうそくに息を吹きかけられない、幸福を祝えない状況について考えていました。でも、ろうそくが煙突になり、いちごが人間と動物になり……結果的に船になりました。乗っているのは全部違う種類の動物なので、種を存続できずに、この航海の先には何もない。意味するところが暗くても、絵柄が重たく残酷にならないようにしています」。目を凝らしてみると、半月型の船の下に、うっすらとケーキの土台のような部分が残っていることに気づくだろう。試行錯誤しながら画面と向き合う作家の手の痕跡が見えるのも特徴のひとつだ。
村上さんは、銅版に筆で直接描いた線を腐食させるリフトグランド・エッチングという手法を用いている。まずは銅版に下書きをせずポスターカラーで描き、水で消しながら修正していく。線が決まったら腐食させ、その後も気になる部分を削って版が完成する。「一度腐食させてあらわれた線は、獣医の父が使っていた動物の骨を削る機械で表面を削って、紙やすりでこするという工程で消しています。ただ、心の傷が完全になくなることがないように、銅版の傷もきれいに消えることはない。その跡をどれくらい残すのか、場合によっては消した上から描き直しながら考えています。銅版画の技法に助けられているところが大きいですね」。銅版に刻まれた線は心の傷、線を埋めるインクは血、インクを載せる紙はガーゼ(包帯)──ステイトメントにある通り、村上さんにとって制作とは“傷つける”ことにほかならない。
加えて、銅版と銅版の継ぎ目も画面に独特のリズムを与える要素の一つだ。作品が比較的大きいのは、分割した銅版を何枚か並べて制作しているからだという。元は、大学にあった腐食槽の大きさにあわせるために銅版を分割していたのだが、次第に継ぎ接ぎのある絵に面白さを感じるようになった。「最近はあまりやらないですが、大学の頃は継ぎ目で絵をずらしたり、一部を違うものに入れ替えたりしていました。いまでもたまに、絵の左右をひっくり返すことがあります。これにも理由があって、子どもが着せ替え人形の服をとっかえひっかえするとか、おもちゃの手足を別の穴に差し込むとか、そういう無邪気な遊びの要素を自分の版にも入れたかったんです」。要素を継ぎ接ぎしながら版に向き合う過程は、彫刻にも近いところがあるのかもしれない。
人の心に寄り添う小さな石のように
このように村上さんの作品には、筆で描かれたダイナミックな線や、黒い面のなかに見える微かな濃淡、そして版を削ることで生まれる動物たちの生々しい毛並みが同居している。今回の展示では、線を活かした初期作品と、グレーや黒の面が織りなすかたちを意識した近作が、丹下健三の設計によるシンメトリー構造の美術館と響きあうように配置されている。「普段から、線と面の関係で作品の配置を考えています。今回は真ん中に馬車と馬、その横に舞台の幕があって、中心から分け入って見られるようにしました。右側には円卓のモチーフがまとまっています」。作品を歩きながら鑑賞すると、隣り合う作品が緩やかにつながり、一つの絵巻物のようにストーリーの経験が生まれていく。
黒が印象的な作品群だが、舞台の幕の赤やブルーシートの青色も鮮やかだ。「大学院の頃に色を使うようになりましたが、あくまでも描きたいモチーフがその色だったという理由からです。銅版画で色を使うには版を増やさないといけないのでとても大変だし、何より黒が一番魅力的に出るので、たくさん色を使う利点が私にはあまりないかなと思います。今後は赤や青だけの単色でも刷ってみたいですが、まだそこには至れず難しさを感じています」。
作品について「誰のことも救ったりはできない、私の絵はそういう位置にある」と村上さんは語る。「私は自分自身を癒やすために、自分のことだけを考えて内側に籠もることで絵を描いてきましたが、最近の社会の状況や、自分が歳を重ねたこともあって、だんだんそれだけだと描けなくなってきて。でも、作品で何かを訴えたり自分の意思表示をしたりするのもおこがましいなと思います」。しかし、心の底に眠る何かへの恐れやトラウマ、消え去ることのない傷など個人的な題材を扱ってきたからこそ、今回のようにそれが街を行き交う多くの人の目に触れることには希望もある。「自分のように傷つきやすく、不自由さを感じている人はたくさんいるはず。私の作品は、そんな人たちが傷のところにちょん、と置く小さな石のようなものでありたいです。あるいは、いつ捨てたかもわからないけれど小さい頃に大事にしていたぬいぐるみとか、好きだったおもちゃとか。そんな風に、ただそっと心に寄り添うような存在になれたらと思っています」。
たしかに村上さんの作品は銅版を傷つけることで生まれるが、そこには線をインクで埋め、紙という包帯で手当てをすること、つまり傷を癒やす過程も含まれている。作品世界にひとたび触れれば、誰しも自分の記憶や心のどこかに必ず引っかかる部分があるはずだ。ときに人間を襲い傷つける存在と、その痛みを分かち合う。癒やすためにまた傷つける。自分自身を救うために始まった制作がこれからどのような展開を見せるのか、期待したい。
取材・文:白尾芽
撮影:大野隆介(注釈のないもの)
【プロフィール】
村上早(むらかみ さき)
1992年 群馬県生まれ。武蔵野美術大学油絵学科版画専攻卒業。同大学院造形研究科版画コース修士課程修了。ポスターカラーを使い筆で銅版に直接描いた線を腐食させるリフトグランド・エッチングなどの技法で、自身の記憶やトラウマから生まれたモチーフを描く。2015年「第6回山本鼎版画大賞展」大賞、2016年「アートアワードトーキョー / 丸の内 / 2016」フランス大使館賞、「project N 66 村上早」(東京オペラシティアートギャラリー)、2019年個展「gone girl 村上早 展」(上田市立美術館)、2021年グループ展「カオスモス6 沈黙の春に」(佐倉市立美術館)
【インフォメーション】
New Artist Picks: Wall Project 村上早 | Stray Child
会期:2022年3月12日(土)~11月6日(日)*予定
会場:横浜美術館前 仮囲い(グランモール公園「美術の広場」)
横浜市西区みなとみらい3-4-1
観覧料:無料
協力:コバヤシ画廊
URL:https://yokohama.art.museum/exhibition/index/20220312-577.html
リーフレット:https://yokohama.art.museum/static/file/exhibition/catalog_NAPWall_MURAKAMISaki.pdf